【悲報】邪馬台国九州説、考古学会では既に圧倒的少数派だった
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でも福岡には金印あるから
短期間で移るって弥生時代始まって以来ずっと九州が列島の中で一番隆盛を誇ってただろ
ゴミみたいなソースだなこれ
学会メンバーの構成員は?
九州出身が少ないとかそんなんでねえの?
いわゆる政治力でそんなんなってるとか
>>8
そもそも、九州説の描く「邪馬台国」ってもんが存在しないです
ソースってなに?
大陸の罵倒語を今でも大事に使ってるのが違和感ある、なんも残ってないなんてあんの
長年考古学会を牛耳ってた東大の教授が特に確信もなく学生時代から九州説ってだけで他の説に圧力かけてたんだよな
そいつが引退したら一気に近畿説に傾いたという
邪馬台国の地理とか地形を考えると九州以外には無いのでは
誰もわからんことを数の力で押し通しているだけのこと。
むしろ何で5chは九州説派が圧倒的なの?
最新の研究では、邪馬台国は町田リス園のあたりにあったというのが有力視されている
何年か前に見た邪馬台国TV討論番組では「学会ではすでに畿内説で確定。
でも民間の盛り上がりが凄いのであえて変わり者の学者5%ぐらいが九州説についた。」
これを畿内側の学者が言い、3人いた九州説派の学者は誰も否定できなかった
民間の議論の盛り上がりは、学者の研究費用のアップにも影響するからだ
九州説派の学者は結論ありきで、九州説肯定の証拠だけを集めている
卑弥呼は公孫氏の娘だよ
夫餘王仇台と公孫氏が同盟の証に政略結婚して夫餘に嫁いだ
魏志韓伝に韓と倭は帯方郡に属したと書いてる
倭国は公孫氏の配下に入った
倭国そう乱が収まったのは大陸の公孫氏とのパイプ役である公孫氏の娘か孫娘の卑弥呼を王に立てたから
一大卒は公孫氏側の駐屯部隊
邪馬台国の卑弥呼
大和国の姫巫女
邪馬台国=ヤマト王権、と無理やりにでも結びつけたい気持ちって意味がわからないんだが
九州説の奴って妙に必死で攻撃的だよな。
九州だと何か都合でも悪いのかね?
古事記読めばその時代には纏向に天皇が住んでたんだし邪馬台国は九州だってなるだろ
>>114
その理論だと邪馬台国は北海道でもなりたつねw
邪馬台国九州説はどうでもいいが、考古学学会は信用ならん。
魏志の後に編纂された後漢書では、狗奴国は邪馬台国から海を渡って東にある
狗奴国の方が近畿っぽくて、名前が逆だったらしっくりくるんだけどな
ていうか邪馬台国は大和朝廷と独立した国な説はないのか?
>>127←>>125
>>23←>>125
邪馬台国以降の国の羅列が南西諸島とほぼ一致。
>>137ですよ。=>>125
卑弥呼さまが九州出身なら酒豪のイメージある
>>148←>>125
本場の学者は圧倒的に九州だが、日本はなぜか少数派
マジレスすると九州説はネタ的には面白いだけで主流でも何でもない
纏向遺跡が全てを過去にした
>>165
纒向が大和朝廷もしくはその前身の首都であった可能性が高いからなぁ
邪馬台国が九州にあったのなら大和朝廷とはなんの関係のない小国で早々に滅びたって考えるしかなくなる
まぁそれでも良いんだが
>>165
正解
だからさぁ、冬の居城が九州で夏の居城が畿内なんだってば
特流遷都説に光を当てろよ
卑弥呼の墓は箸墓古墳
コレ全部ジョーマクモニーグルの透視結果な
邪馬台国をヤマタイと現代の発音で読むからややこしくなる
当時の魏の国でどのように発音されていたか考えないとね
邪馬台国は八幡平にあったからね。
普通に読んだら九州から出てないよ
日程まとめをそこから更に移動したかのように捉えるのが完全に間違い
近畿は近畿で発展してたかもだが邪馬台国では無いだろ
だいたい邪馬台国は中国に搾取されてた訳で日本が元々そんな国であって欲しいのか?
どう考えても魏の属国で魏志倭人伝の記述は税の回収の旅程なんだけど
ずっと九州だと思ってたわ
東夷伝倭人条を普通に読むと九州としか思えなくて
天皇を2684年前から我が国の統治者としたい謎のウヨ勢力がいるからな
そいつらにとっては機内じゃないと都合が悪いんだよ
歴史学や考古学でなく宗教だな
当時の大陸から来るなら九州が玄関口だと思うけどなあ
もっとはっきり書いてほしいよなw
まあ日本の情報なんておまけ程度だったろうけど
卑弥呼には弟がいた
これマメな
魏志倭人伝の要旨は「うち(魏)に従う蛮族がこんなにいるんだぞ」ってことだから、邪馬台国とヤマト朝廷で同一だと日本は元支那の支配下でした、と認めることになってしまわないだろうか
邪馬台国が大和朝廷の起源なら、皆でヒメミコをアイドルとして推し立てて国を作ったという、世界に類を見ない建国方法だと思う
皆ヒメミコの推し活仲間として連帯感が生まれて国が纏まった
そういう意味では現代でも同じ様なことをやれない事もないかも
なんでヤマタイコクなの
ヤマトコクじゃないの?
台与はトヨって読むのに
教えてエロい人
邪馬台国と同時代の遺跡が畿内から多数出土してるんだよなあ
弥生時代の集落跡もいっぱい
仮に邪馬台国が九州にあったとしても、
畿内にも一大勢力があり、やがて大和国となったのは間違い無い史実
卑弥呼の時代の東国に勢力と言える程の纏まった遺跡は無く、まして紀元前から遠賀川式土器などを使う渡来人が東にも集落を残していただけ
古墳時代にヤマト王権が現れるまで東国は殆ど放置されていたままだった
縄文晩期は寒冷化に伴う環境の変化により、弥生海退と呼ばれる海水面の低下で干潟が一気に減少し、貝塚も消えていく。
木の実、動物などの食料が減少した時代でさらに約3000年前に富士山が4回の爆発的噴火を起すなど、
関東平野一帯では富士山や箱根山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、急激な人口減少が起きたと考えられる。
そのため関東では遺跡がほとんど見当たらないという状況にまで至っている。
いわば空白地帯となった関東平野で、弥生後期になると再び人口増加に転じる。どこから?どのような人々が関東平野に移り住んだのか?
34世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日
関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
布留式土器の時代になるとさらに北に進出して分布が広がる。同時に東海の土器も茨城県・福島県・宮城県、そして岩手県まで北進。
弥生時代の遺跡は、最上川流域に極めて少ない。
古墳時代前期、すなわち米沢盆地は北陸ー会津ルートによるものであり、山形盆地は畿内ー仙台ルートによるもの、
庄内平野は北陸ー越後方面から、人々がかなり進出したことによるものであった。
人と物の頻繁な移動により、人口希薄なこの地に多くの人びとが移住するという外来的な要因によって、
最上川流域の古墳時代が開始されたのである。
日本書紀とか、国を挙げての一大事業の遣隋使ですら、ひたすら叱られて終わった第一回の件は完全になかったことにしてる有様だからな
しかしその時学んだ文明に基づいてできたのが冠位十二階や17条憲法であるために、史書編纂時辻褄合わなくなってしまった
そこで、何とかして自力で作り上げたことにするためにスーパーマンが求められた結果、直後に後腐れなく一族全員自殺してくれる皇族である、聖徳太子が生まれた
まあ、厳密には聖徳太子の名は日本書紀にすら出てこず、初出は更に半世紀後の詩集という有様だけどw
どこかはまだわかんないねぇでじゃダメなのか?
邪馬台国は九州、大和朝廷は機内じゃないんか